日本の高度経済成長期を支え、「空の革命児」ともいわれたジャンボ旅客機ボーイング747が今月末、44年にわたった国内民間機としての役目を終える。「今後、これだけ長期にわたって活躍する機種は現れないだろう」。ジャンボジェットの愛称で親しまれた「旅客機の王者」の引退に、航空関係者からは惜しむ声があがっている。
大阪万博が開かれ、多くの人が高度経済成長を謳歌(おうか)していた1970(昭和45)年7月、日本航空が他社に先駆けて国内で747を導入した。米ボーイング社製の機体は全長約70メートル、両翼を含め幅60メートル、高さ20メートル。従来の航空機とは比べものにならない超大型機だった。
ボ社は当初、軍用輸送機として開発を進めたが、米空軍はロッキード社の輸送機を採用。膨大な投資だけが残った。ボ社は社運を懸けて民間機への転用を目指し、巻き返しを図った。70年1月、パンアメリカン航空のニューヨーク−ロンドン線で初就航。半年後に日本の空に姿を現すと、機体の巨大さとユニークな「顔つき」に注目が集まった。
もともとは「鼻先」の機首部分から戦車を積み込めるよう設計されたため、コックピットが2階部分に設けられた。旅客機となり機首部も客席となったが、機体前方の2階はコブのように出っ張ったまま。正面から見ると愛嬌(あいきょう)がある人の顔に見える。
左右の翼の下には計4基の大型エンジンが搭載された。従来の倍以上の約500席がある「巨人機」の登場で、大量輸送時代の幕が切って落とされる。90年代半ばには、日本は120機を超える747を保有する「ジャンボ大国」になった。
元747機長で航空評論家の小林宏之さん(67)は、羽田空港を中心に離着陸便数が制限される中で「国内線でも一度に大人数を運びたいというニーズが高かった」と指摘。「日本人の海外進出を促し、海外旅行を身近にした。ヒト、モノ、文化の交流に寄与した功績は絶大だ」と話す。機体の安定度は抜群で「性能は今も他機種と比べて見劣りしない」という。
それでも時代の波には逆らえなかった。90年代後半ごろから、低燃費で長距離の運航が可能な後継機に座を奪われていく。2011年春に日航が撤退、全日空も国際線では既に運航しておらず、最後に残った1機が国内線で飛行を続けている。
国内ラストフライトは31日の沖縄−羽田線。那覇を午後0時35分に出発し、羽田には同3時に到着する予定だ。全日空は「雄姿を記憶にとどめてほしい」としている。【松谷譲二】
大阪万博が開かれ、多くの人が高度経済成長を謳歌(おうか)していた1970(昭和45)年7月、日本航空が他社に先駆けて国内で747を導入した。米ボーイング社製の機体は全長約70メートル、両翼を含め幅60メートル、高さ20メートル。従来の航空機とは比べものにならない超大型機だった。
ボ社は当初、軍用輸送機として開発を進めたが、米空軍はロッキード社の輸送機を採用。膨大な投資だけが残った。ボ社は社運を懸けて民間機への転用を目指し、巻き返しを図った。70年1月、パンアメリカン航空のニューヨーク−ロンドン線で初就航。半年後に日本の空に姿を現すと、機体の巨大さとユニークな「顔つき」に注目が集まった。
もともとは「鼻先」の機首部分から戦車を積み込めるよう設計されたため、コックピットが2階部分に設けられた。旅客機となり機首部も客席となったが、機体前方の2階はコブのように出っ張ったまま。正面から見ると愛嬌(あいきょう)がある人の顔に見える。
左右の翼の下には計4基の大型エンジンが搭載された。従来の倍以上の約500席がある「巨人機」の登場で、大量輸送時代の幕が切って落とされる。90年代半ばには、日本は120機を超える747を保有する「ジャンボ大国」になった。
元747機長で航空評論家の小林宏之さん(67)は、羽田空港を中心に離着陸便数が制限される中で「国内線でも一度に大人数を運びたいというニーズが高かった」と指摘。「日本人の海外進出を促し、海外旅行を身近にした。ヒト、モノ、文化の交流に寄与した功績は絶大だ」と話す。機体の安定度は抜群で「性能は今も他機種と比べて見劣りしない」という。
それでも時代の波には逆らえなかった。90年代後半ごろから、低燃費で長距離の運航が可能な後継機に座を奪われていく。2011年春に日航が撤退、全日空も国際線では既に運航しておらず、最後に残った1機が国内線で飛行を続けている。
国内ラストフライトは31日の沖縄−羽田線。那覇を午後0時35分に出発し、羽田には同3時に到着する予定だ。全日空は「雄姿を記憶にとどめてほしい」としている。【松谷譲二】
0 件のコメント:
コメントを投稿